株式会社角間川

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13.落合東堤生誕碑

落合東堤生誕碑

多くの分野で地域に尽くした角間川聖人

落合東堤は、江戸時代中期~後期に久保田藩で活躍した角間川生まれの儒学者です。名は直養(なおやす)、字は季剛(としたけ)、通称は文六、東堤は号です。寛延2年(1749)生まれ、天保12年(1841)没。16歳で中山青莪に朱子学を学び、更に21歳の時に師である中山青莪と共に京都に行き学問に励みました。京都へはその後2回ほど出かけていますが、その道中に各地を見て回り見聞を広めたそうです。角間川に戻ってからは、久保田藩の藩校明徳館の教授に請われましたが固辞し、「守拙亭」と称する私塾を角間川にひらいて士族・庶民の別なく学問を教え、河港として繁栄していた角間川地域の風紀粛正につとめました。守拙亭の名は、陶淵明の詩「拙を守り田園の居に帰る」に由来するといわれます。学識、人格ともに優れ、藩内でも有名な学者として知られた人物でした。壮年となってからも、角間川に良い医者がいないことを残念に思い、医術を学び「文六膏」を作るなどしたり、遠遊の際に冷害に強い早稲種を集めてきて研究し農民にすすめたりする(文六早稲と呼ばれた)など、教育・医術・農業など多分野で地域に尽くし「角間川聖人」と呼ばれて士民から慕われました。93歳で亡くなるするまで多くの書物を著し、主著に『東堤随筆』、『四書講義』などがあります。天明の大飢饉の際には久保田藩により飢饉対策を求められ、天明6年(1786)『落合東堤上書』を具申しています。墓所は喜福院(本町の墓所)にあります。この標柱は落合東堤の生地であることを示したものです。

朱子学

江戸幕府の官学(幕府公認の学問)として採用され、当時の日本社会の身分秩序や道徳規範の支柱となった学問です。

『落合東堤上書』

天明6年(1786)、東提38歳。天明3年に奥羽地方は冷害に見舞われ、多数の飢えた人を出した「天明の大飢饉」がありました。この飢饉は非常に深刻かつ悲惨だったため、東提は罹災民の救済について藩に献策したものです。39カ条あり、藩政の強化と財政立て直し、領民の生活安定について上申されています。

文六早稲(ぶんろくわせ)

たびたび起こる冷害対策に稲作改良の必要性を痛感していた東提が、諸国から早生種の稲を集め、試作を繰り返したと伝えられています。このうち、良い結果があった品種を農民たちに勧めたそうです。これら早生種の推奨品種は研究の継続過程でいろいろな品種があったと思われますが、これらはまとめて「文六早稲」と呼ばれていたそうです。

陶淵明「帰園田居」

「拙を守り田園の居に帰る(拙を守りて田園に帰る)」は、東晋の詩人 陶淵明(365–427) が詠んだ有名な詩のひとつです。原題は 《歸園田居》(帰園田居)で、五首から成る連作詩の第一首を指すことが多いです。 陶淵明は役人として仕官していましたが、役人の世界が肌に合わず、40歳を過ぎた頃に俸給を捨て、故郷に帰って隠居生活を始めました。その時の心境を詠んだのが「帰園田居」です。詩の中の「拙」 は「世渡りの下手さ」というより、むしろ 「愚直で要領が悪いが無理に俗世に合わせず、自分らしく生きる」 という価値観を肯定する言葉として使われています。

詩の原文(第一首)

  • 少無適俗韻,性本愛丘山。 誤落塵網中,一去三十年。
  • 羈鳥戀舊林,池魚思故淵。 開荒南野際,守拙歸園田。
  • 方宅十餘畝,草屋八九間。 榆柳蔭後檐,桃李羅堂前。
  • 曖曖遠人村,依依墟里煙。 狗吠深巷中,雞鳴桑樹顛。
  • 戶庭無塵雑,虚室有餘閑。 久在樊籠裡,復得返自然。

意訳

私はもとより俗世の調子に合わず、生まれつき山や野の自然を愛していた。
誤って俗世のしがらみという網にかかり、三十年もの歳月が過ぎてしまった。
籠の鳥は元居た林を恋しく思い、池の魚は元居た川の淵を懐かしがる。
南の野原を開墾して、愚直な生き方を守ろうと思って田園広がる郷に帰ってきた。
土地は十余畝ほどの広さで、草ぶきの家は八つか九つほどの部屋がある。
家の裏には楡や柳が茂り、家の表には桃や李(スモモ)が並ぶ。
遠くには里の村がかすんで見え、村の家々から飯を炊く煙がたなびく。
犬が路地で吠えて、鶏が桑の木の上で鳴いている。
この家に俗世の煩わしさは無く、がらんとして静かな部屋にはゆったりした時が流れる。
長く俗世の籠の中に居たが、ようやく本来の無理をしない自然な暮らしに帰ることができた。

参考文献

  • 大曲市『大曲市史 第二巻 通史編』大曲市、1999年、pp.213-221。
  • 秋田叢書刊行会編「雪出羽道・上」『秋田叢書第5巻』秋田叢書刊行会、1933年、pp.104-113。
  • 大曲市昔を語る会連絡協議会『大曲市の歴史散歩』大曲市・大曲市昔を語る会連絡協議会、1977年、pp.100-119。
  • 渡部綱次郎「秋田藩における教育の普及‐落合東提の研究」『月刊社会科教室8月号』中教出版、1971年、pp.2-5。

参照ホームページ

落合東堤生誕碑の場所