株式会社角間川

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12.本妙山覚善寺

本妙山覚善寺

静寂につつまれる日蓮宗の古刹

日蓮宗の寺院で御本尊は大曼荼羅御本尊。菅江真澄によれば、寛永17年(1640)建立で越後国寺泊の法福寺、智玄院日恵上人の開山とされます。歴代から碩学名僧を輩出したと伝わり、門前の夫婦欅と呼ばれる大樹が印象的な景観となっています。

境内には戊辰戦争角間川の戦いで亡くなった秋田藩士3名の墓(介川敬之進銃士 渋川謙之進/田所養蔵/山県此作)があります。1868年8月13日、愛宕神社に陣取った新政府軍は木内方面に向かって進軍し、木内村(当時)周辺で激しい戦闘となりました。その際、介川隊と橋本隊所属の多数の藩士が命を落としています。

戊辰戦争・角間川の戦い・木内村での戦闘について】『太政官日誌第百七号 明治紀元戊辰冬十月』に木内周辺での戦闘の詳細が記録されています。以下は、その記述内容を読みやすくしたものです。

羽州角間川附近ノ戦

八月八日、卯の刻より左馬村川原に台場を築き、戦闘の手配を行った。同日巳の刻頃、賊およそ三百人が角間村川原より進来し、激しく発砲してきた。これに対し味方五十余人は、台場の陰から応戦したが、小勢のため戦いは困難となった。そこで奇兵を設け、同所より西南一丁ほど後方の杉林の陰に旗数本を立て、後陣のように見せかけたうえで、全軍で鬨をあげて進撃した。

しばらく交戦しているうち、巳の中刻頃、肥後藩二小隊ならびに梅津専之助・介川敬之進の手勢が応援に到着し、さらに肥後藩一小隊が川を越えて進撃したため、味方は大いに勢いを得た。そのまま奮戦していたが、肥後藩の斥候より「増田口が破られ、後方が断たれたため、速やかに撤退する」との報が入った。やむなく総勢は深間内村まで引き揚げた。このときの負傷者は次の通りである。

手負
戦士 簗猪蔵/軽部貞之進/宮崎谷四郎/小野田半八
足軽 原田長之丞/山崎栄左衛門

八月十二日、角間川村より一丁ほどの愛宕社内の脇に台場を築き、在陣した。同十三日、辰の上刻、斥候より「田村に屯集していた賊徒が木内村まで進来した」との報知があり、諸手へ伝達して戦闘の準備を整えた。

辰の中刻頃、賊は左右に分かれて進んできた。これに対し、左は介川敬之進、中は長州藩新庄勢、右は秀之助が受け持ち、愛宕社脇より西方の川沿いは長州藩が進撃した。辰の下刻頃、諸手一同で戦闘を開始した。巳の半刻頃になると、味方の砲声はいよいよ激しくなり、賊勢は次第に弱まり、退却の様子を見せた。そこで総軍一同が鬨をあげてさらに進撃したところ、賊は敗走し、木内村に放火して逃走したため、当手は本陣へ引き揚げた。

同日午刻頃、再び賊兵が来襲し、その勢いは初めの倍にも及んだ。当手は朝からの戦闘で疲労していたが、踏みとどまって応戦した。午の下刻頃、小野寺・佐賀・田中数馬らが応援に入り激しく発砲したため、味方は勢いを得て奮戦した。しかし諸手の味方が引き揚げたのか、賊が左右に回り込み、三方から激しく攻め立てた。当手は小勢で応援もなかったが、踏みとどまって苦戦を続けた。その折、長州藩の三原温助より「早々に引き揚げよ」との報が届いたため、やむなく神宮寺村まで撤退した。この二度の戦闘における戦死・負傷は次の通りである。

討死
組頭 宮崎弥五右衛門
戦士 石井良兵衛/植田新太郎/梅津源三郎
金鼓付添士 石川四郎右衛門
足軽 小松助左衛門
小荷駄方 阿部重左衛門/同手代 敬之助
茂木秀之助家人 登坂鶴治

手負
使武者 君田竹治
戦士 金丸弥右衛門/山口金之助
足軽 嵯峨五右衛門/阿部又之丞/浜野九兵衛/伊藤平治
茂木秀之助家人 皆川吟蔵

以上、番頭茂木秀之助よりの報告である。

介川敬之進戦死ノ事

八月八日、佐竹三郎の手勢が志摩村で戦闘となり、肥後藩より応援要請があったため、湯沢から二、三丁ほど進出した。瀬谷和三郎一小隊、橋本助右衛門二小隊とともに陣列を整え、川を隔てて賊と砲戦に及んだ。やがて賊は川岸より四、五町退いたが、再び上流より激しく発砲してきた。味方は小勢ながら、永井新右衛門・平沢礼治らが兵士を励まして奮戦した。肥後藩より引き揚げの報知があったが、なおも戦闘を続けていたところ、総軍が撤退したため、やむなく平鹿郡植田村まで退いた。このときの戦死・負傷は次の通りである。

討死
介川敬之進銃士 秋山鶴治
橋本助右衛門手銃士 高杉清八

手負
介川敬之進銃士 小田内勇助/杉野礼助/清水理市
瀬谷和三郎手銃士 下河辺久左衛門/佐々木忠治/若木才治

同九日、賊三隊ほどが西山方面へ回るとの報があったが、味方は小勢で応援もなく、防禦困難となったため角間川へ引き揚げた。同十一日、賊が山伝いに角間川へ来襲するとの報があり、直ちに進撃した。田村にて賊兵を追い散らし、わずかながら分捕りもあった。同日、諸手は大曲村まで引き揚げたが、角間川は要地であるため、茂木秀之助と同様に同地で防禦の手配を行った。同十二日、長州藩三原温助の指図により、大久保村へ移動し、防戦体制を整えた。同十三日早暁、角間川本道へ進撃した茂木秀之助隊および本庄勢が賊と交戦した。巳の刻頃、苦戦の様子であったため直ちに進撃し、半小隊が賊の側面から後方へ回り込んだ。これにより賊は退却の気配を見せ、本道の味方は勢いを得て大いに進撃した。瀬谷和三郎隊・橋本助右衛門隊も大久保村橋付近の賊を追い散らし、協力して木内村まで追い詰めた。

しかし賊が民家に放火したため進撃は困難となり、しばらく田畑に控えた。そのうち前方の萱原から賊約百人が突出して激しく発砲し、味方は三手に分かれて防戦した。折悪しく賊が後方にも回り、前後から激しい攻撃を受け、大いに苦戦した。それでも隊長・介川敬之進は踏みとどまり奮戦した。長州藩三原温助より二度にわたり撤退命令があったが、なおも戦い続けた。しかし諸隊の多くが引き揚げ、賊が三方から攻めてきたため、肥後藩および諸手に応援を求めたが、すでに総軍は撤退しており援軍は得られなかった。

それでも敬之進は兵士を励まして奮戦したが、弾薬は尽き、死傷者も多くなった。ついに敬之進も被弾し、やむなく大曲村まで退いた。この戦いにおける戦死・負傷は次の通りである。

討死
隊長 介川敬之進/橋本助右衛門
介川敬之進銃士 渋川謙之進/田所養蔵/水戸部才吉/山県此作/黒沢常蔵/梁慎五郎
橋本助右衛門銃士 仁平文九郎/石川新助/下田主鈴/宮沢忠之丞/石川忠四郎

手負
若木平助/浅利運吉/高橋源之助
隊長 瀬谷和三郎
介川敬之進銃士 吉田源蔵/小野崎順治/水戸部斧治/牛丸辰也/菅又乙之助
橋本助左衛門銃士 境田音吉/田村吉右衛門/安土沖美

以上、介川敬之進旗奉行・粕谷藤太よりの報告である。

参考文献

  • 秋田魁新報社企画部『秋田のお寺 大曲・仙北』秋田魁新報社、1978年、pp.156-157。
  • 秋田叢書刊行会編「雪出羽道・上」『秋田叢書第5巻』秋田叢書刊行会、1933年、pp.104-113。
  • 大曲市昔を語る会連絡協議会『大曲市の歴史散歩』大曲市・大曲市昔を語る会連絡協議会、1977年、pp.100-119。

参照

本妙山覚善寺の場所