株式会社角間川

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19.和光殿

和光殿
和光殿

和光殿(旧奉安殿)2

和光殿

和光殿(旧奉安殿)3

和光殿

和光殿4

角間川に残る近代歴史の記憶の場所

かつて「奉安殿」と呼ばれた建物です。大正2年(1913)建築、銅板葺き屋根の木骨コンクリート造りで、中は畳2枚半程の広さです。正面は観音開きの鉄製の扉で、その厚さは20cmもある頑丈なものです。今は「和光殿」と呼ばれ、戦没者慰霊の建物として八幡神社の境内にあります。

奉安殿

奉安殿というのは天皇皇后両陛下の御写真(御真影と言いました)と教育勅語(明治23年(1890)10月30日発布。教育勅語の主旨は、明治維新後に大きく変わった国家と、藩ではなく日本という国の国民としての両者の関係性のあり方、そして維新という社会変化の中で規範を見失っていた道徳の根幹を示すもの)を納めるための施設で、この和光殿も角間川小学校四上校舎校庭にありました。奉安殿は1890年代以降、特に小学校を中心に全国で設置が進み、昭和に入ってから設置は活発化したそうです。角間川小の奉安殿は大正2年に建てられているので、比較的早期に建築されています。

奉安殿はその性質上、火災や盗難を防ぐため耐火性・防盗性を考慮した設計が求められ、多くの場合、校舎とは別に独立した小規模な建物として建てられました。建物の設計は予算や地域事情により、簡素なものから立派なものまで様々だったようですが、角間川のものはデザインといい銅板葺き屋根といい非常に立派なものです。これは建築当時、地主町だった角間川の財力を伝える側面もあります。

奉安殿から和光殿へ

先の大戦終戦後、全国の奉安殿は、昭和20年(1945)のGHQ指令(神道指令)の関連措置として撤去を命じられています。多くの場合は解体されるか、倉庫などに用途変更されました。 当地では経緯は不明なものの取り壊されずに、昭和21年10月2日から、八幡神社境内に丸太のコロで曳家移築が始まりました。移築作業は2ヶ月ほどかかって12月8日に終わったそうです。その後、和光殿と名を変えて、明治以降の角間川の戦没者百十九柱を奉り角間川地区遺族会が戦没者追悼の慰霊祭を行っていました。

大仙市内に現存する旧奉安殿は当地を含め、2つです(太田の大薗寺、旧長信田小学校奉安殿を移築、大仙市文化財課より聞き取り)。秋田県内にはこの他に4件(男鹿市船越の龍門寺境内に戦没者を祀る「忠霊殿」、鹿角市1件、大館市1件、秋田市1件)、合計6件あるそうです。

角間川の和光殿(旧奉安殿)は、明治維新後の新しい国づくりや、国と国民との新しい関係構築、近代教育の始まり、といった近代日本の歴史の大きなうねりの中で建てられました。時代の変化を経て、地域の人々の手によって慰霊の場所へと姿を変えて残るのは貴重な事です。100年を超えて残る当地の和光殿は、“時代を越えて受け継がれた記憶の容れ物”であり、現代の私たちが歴史を振り返る契機になる建物です。

神道指令

神道指令は、1945年12月15日にGHQが日本政府に対し発令した「国家神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ノ件」(SCAPIN-448)の通称です。指令により、国家による神道への公的支援の停止、学校教科書からの神道教義の削除、宗教の国家からの分離が徹底されました。また、この時に「大東亜戦争」等の用語の使用も禁止されています(後に失効)。この結果、国家の保護を失った多くの神社は1946年1月に神社本庁を結成し、他の宗教と同様に宗教法人となりました。1952年のサンフランシスコ講和条約によって日本が主権を回復した時に、これらのGHQ指令は全て失効しています。

参考文献 図書

  • 大曲市昔を語る会連絡協議会『大曲市の歴史散歩』大曲市・大曲市昔を語る会連絡協議会、1977年、pp.100-119。

参考文献 新聞記事・ウェブページ

和光殿の場所