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9.新町の稲荷神社

新町の稲荷神社
新町の稲荷神社

新町稲荷神社

新町の稲荷神社

新町稲荷神社 石碑群

新町の稲荷神社

新町稲荷神社 権斎塚

角間川に大いに貢献した黒丸家の氏神様

黒丸五郎兵衛家が伏見稲荷を勧請したと伝わります。黒丸家は1635年頃に越前(今の福井)黒丸郷から移住し能登屋を名乗って商売を始めたそうです。後に角間川の肝煎を三代に渡って務めるなど町に大きく貢献した家でした。黒丸家は佐竹藩より新田開発の貢献を認められ郷士(士分)となりましたが、嘉永7年(1854)、藩命で海岸防衛のため新屋へ移住しました。お稲荷さんは黒丸家の氏神としてお祀りしていたと思われますが、黒丸家移住後は、新町の集落でお稲荷さんをお祀りしています。境内には権斎塚などの石碑が6基並んでいます。

黒丸家

角間川の初期から町の中心的な役割を担った家でした。宝暦6年(1756)8月、肝煎の五郎兵衛(四代黒丸惟常)は、村に多くの飢えて亡くなった者らがでた折に、米や銀二貫二百文を出して村人を救済したと伝わります。

この四代黒丸惟常は、元文5年(1740)から安永8年(1779)まで40年に渡って角間川の肝煎を務め、藩より「調銭五貫文」の褒美を貰ったそうです(大曲市史)。また、六代黒丸継宗も、寛政7年(1796)に三代に渡って肝煎を務めたことにより藩から褒美をいただいています。四代惟常より数えると60年近く、角間川の肝煎として尽くしていただいた家であることがわかります。

七代惟孝は、文政12年(1829)新田開発での功績で、百姓から武士の身分に取り立てられ一代近進並、いわゆる角間川の郷士となった人物です(大曲市史)。近進は久保田藩家臣の家格で、上士格の下、平士格です。また、惟孝は角間川に今も残る旭塚、権斎塚を建てています。

石碑群

左から、蠺塚(「蠺」は蚕の旧字体)、遊士権斎塚、歌碑、二十三夜塔、石碑1(馬六…)、石碑2

蠺塚

かいこづか。「蠺」は蚕の旧字体です。養蚕の盛んだった地域で、蚕供養としての石碑や祠が残っています。角間川でも養蚕が行われていたものと思われます。摩滅して判読し難いですが、右側に「萬延」、左側に「庚申」とうっすら見えますので、万延元年(1860)頃のものかと思われます。

遊士権斎塚

神社境内には「遊士権斎塚」と刻まれた権斉塚と呼ばれる石碑があります。この石碑には、山中で妻子を山姥に襲われた浪士権斎が角間川に流れ着き浄蓮寺の弟子となる話が伝わっています。この昔話は菅江真澄『雪の出羽路』に記録され今に残り、柳田国男著『桃太郎の誕生』でも昔話の類型のひとつとして取り上げられています。なお、石碑の右横に「文政六癸未七月黒丸惟孝」と刻まれています。文政六癸未(みずのとひつじ)は1823年、約200年前です。旭塚も惟孝によって文政5年に建てられています。

権斎塚にまつわる奇談 原文

慶安の頃ならん。ある浮浪人妊(はら)める妻をぐして、陸奥よりここに来とて、文字の山中にてその妻しきりに腹やみて子産みたり。すべ無(の)う妻をいたわり、草をしきなんど、とかくして日は暮れたり。夜半とおぼしく、しきりに眠り萌(きざ)しぬれば、かたわらなる岩を枕として臥しぬ。物の音するに寝覚めて見れば、己が家に年頃召仕いたりし下女のさまして、いずこよりか若き女の来て、ねもごろに妻を助けいたわるは、怪しき事と思うほどに、産める子も妻もひしひしと咬みぬ。あな恐ろし。こは山嫗(おうな・老女)なんどいうものならん。憎きやつかなとだんびら抜き放ち、妻子の仇と打ち掛くれど、そが身に立たず事ともせず、その眼の光ること鏡のごとく、身の毛いよ立ち、ある木のうれにかき登りて辛(から)き命を全くし、夜明くるを待ちて木より下れば、妻が亡骸は骨のみ残りぬ。いまださるもの隠ろいあらんかとここを馳せ出でて人里を得て、十日二十日とここかしこにさまよい、出羽国に来て平鹿郡角間川に至り、世の中の行く末を思いて、自らも浄土宗なれば浄蓮寺の弟子となりて、名を権斎という。凩(こがらし)の権斎とは異なるべし。権斎が山姥打ちたりし太刀は無銘の二尺九寸にて、そは肥後守国康ならむという人あり。今ある人家蔵せり。その山嫗と見しは狒々(ひひ)なんどいうものにてやありけん。権斎、角間川にて身まかれば、人々塚を築きて近き頃碑を建て、権斎遊士墓と誌(しる)しぬ。いづこの人か。九戸の城の落人なんどにて、名をあらわには語らざりけん。(秋田叢書第5集・菅江真澄・雪の出羽路より)

権斎塚にまつわる奇談 訳文

慶安の頃のことと思われる。ある流浪の武士が、身ごもった妻を連れて、陸奥の国からこの地にやって来たという。途中、文字(もんじ※)の山中で妻が急に腹痛を訴え、子を産んだ。どうすることもできず、夫は妻をいたわり、草を敷いたりしてどうにか一夜を過ごすことになった。夜も更けたころ、激しい眠気に襲われ、近くの岩を枕にして眠りについた。ふと物音がして目を覚ますと、かつて自分の家に長年仕えていた下女のような姿の女が、どこからともなく若い姿で現れ、妻を親身になって介抱している。これはおかしいと不審に思っているうちに、その女は突然、産まれた子どもと妻に噛みついた。なんという恐ろしいことだ。これは山姥(やまんば)などという妖怪に違いない、憎らしいやつだと、太刀を抜いて妻子の仇を討とうと斬りかかったが、まったく歯が立たず、相手はびくともしないばかりか、その目は鏡のようにぎらぎらと光り、身の毛もよだつほどであった。恐怖のあまり、近くの木の上によじ登り、なんとか命を守り通し、夜明けを待って木から降りてみると、妻の亡骸はすでに骨だけになっていた。まだどこかにその怪物が潜んでいるのではと、あたりを逃げまわり、ようやく人里にたどり着くことができた。そして十日、二十日と彷徨い続け、ついに出羽国の平鹿郡・角間川の地に至った。世の無常を思い、自らも浄土宗であったことから、浄蓮寺に入って弟子となり、「権斎(ごんさい)」と名乗った。ただし「凩(こがらし)の権斎」とは別人である。権斎が山姥を斬ろうとした太刀は、無銘の二尺九寸の刀で、ある人によれば、肥後守国康(ひごのかみくにやす)の作ではないかという。その刀は今もある家で所蔵されている。あのときの山姥と思われた存在は、狒々(ひひ)などという妖怪だったのではなかろうか。権斎はその後、角間川で亡くなり、人々は彼のために塚を築き、近年になって碑を建て、「権斎遊士の墓」と記した。権斎とはどこの出身か──おそらく、九戸城の落人であろうが、本人はその素性をはっきりとは語らなかったという。(筆者訳)

※「文字」という地名について:何処かはっきりとは分からないが、栗駒山中に栗駒文字という地名あり。また「安達ケ原の鬼婆」の類型の奇譚とすれば、「文字」とは福島の文知摺(もじずり・もちずり)が伝聞により変化したものとも考えられる、柳田国男も「恋衣」の物語の類型としている。

歌碑

「松月庵六川 山の井や あらわになりて 散る紅葉」と刻まれています。六川は、黒丸家七代当主、黒丸五郎兵衛惟孝の雅号です。この歌碑は、惟孝の子孫が建てたと伝わっています。

二十三夜塔

新町の稲荷神社にも二十三夜塔があります。角間川では、本町や上町、新町などの集落単位で、女房達の二十三夜講が盛んだったのでしょうか。「安政三年 女講中」と見えます。安政3年は1856年です。

参考文献

  • 秋田叢書刊行会編「雪出羽道・上」『秋田叢書第5巻』秋田叢書刊行会、1933年、pp.104-113。
  • 大曲市昔を語る会連絡協議会『大曲市の歴史散歩』大曲市・大曲市昔を語る会連絡協議会、1977年、pp.100-119。
  • 柳田国男『桃太郎の誕生』角川ソフィア文庫、2013年。

新町の稲荷神社の場所